環境サロン「世代間の対話」~倫理について考える 第3回で田村洋一先生の話を聴きました。
2012年11月21日
話が多岐にわたったので、若干、順不同で、演者の意図と異なる受け止め方になっている部分もあるかもしれませんが、サロンの内容を紹介させていただきます。
はじめに、団塊の世代の倫理観といったテーマが与えられたが、倫理という言葉も明治期に西洋からの翻訳語であり、しっかり定着していないし、しっかりした共通認識を持たずに、何となく議論するとういうのは好ましくない。また、団塊の世代とひとくくりにする考え方も問題ではないか。とりあえず自分個人の考えを述べたいという意味のコメントがあった。(たしかに昨今、どんどん新しい造語が現れ、中身が理解されないまま、本質的な議論がなされない傾向があるように思う。このサロンはそうならないようにしたいもの。)
交通工学、都市計画が専門だったが、まちづくりの計画を考える場合、いろいろ案を考えるが、何もしないという選択肢もあるということもよく考えた。よかれと思って進めたことが、あとでよくなかったことも多くある。将来世代の裁量に委ねるという考え方が大事ではないか。だいたい、20年先、30年先に生きているか分からないものが、無責任なことを言わないように注意する必要がある。
阪神淡路大震災、9.11、3.11とそれぞれ根本的に考えるべき事件について、充分本質的な議論や反省がなされないまま、風化していくことは避けなければならない。
計画において、将来を予測するだけではもちろんだめで、将来あるべき目標を実現するためには今、何をしなければならないかを考えなくてはならないと思う。
以下いくつかの指摘点
○西洋の文化と日本の文化の違いが言語に表れている。肉食民族は肉に関する語彙が豊富、魚食民族である日本では肉に関する語彙が貧弱で、魚については語彙が豊富である。車文化は平地が多い西欧では、歴史が古いが、山国の日本では、せいぜい大八車や牛車で、遠距離の運搬は舟運が主であり、道はだいたい歩くためのものだった。日本では自動車が一般に普及するようになったのは、随分最近のことである。そのため、道路についての語彙が貧弱で英語を日本語に翻訳するのがたいへんである。とくに明治以降、急速な西洋化が行われ、文化の違いもあって、日本人の身についていないものも多い。自由や民主主義などもその典型かもしれない。(要は文化の違いを重視し、言葉をもっと吟味しなくてはいけないということ。)
○親子の関係の話で.子どもは誰も生まれようと思って生まれてきたものではないので、親が責任をもって子どもが一人前になるまで育てる義務がある。そうして年老いれば子どもの邪魔にならないように身をひいていくものである。親を大切にしなさい、先祖を大切にしなさいというのはすこしぴったり来ない。年寄りの方がわれわれを何とかしろという。子どもを安全保障と考えたりする。農業の時代ではそうであったかもしれないが、今はサラリーマンの時代だから通用しなくなっている。
昔、日本は一所懸命ということばに表われているように、土地が一番の財産であった。
今は、日本も西洋化して遊牧民族型になり、宝石が財産になってきて、親からの土地や家はかえって負担になるような状況にもなりつつある。
○最近時間の概念が刹那的になってきており、それでいて、最近は直線的な時間のなかで、死を意識せず、未来に責任を持てず。未来が何となく続いていくと思っている。過去をよく知って、未来をよく考えることをしない。(長期的視野が欠けているということもあるか。)また、徹底的に効率化を進め、時間を短縮するために大きなエネルギーを消費する。本来は輪廻という言葉もあるように、時間は循環的であり、一人一人に違う時間がある。ゆっくりした楽しい時間を過ごすことが大切ではないか。
○均質化、標準化が進められ、全国どこでも味わいのない都市がつくられた。マニュアル化社会になっている。アメリカはその最たる国。また、地方に都市の論理が押しつけられる。地方では広い敷地でゆったり暮らすことができるのに、われわれのそういうものだろうという固定観念や、土地にかかる固定資産税の仕組みが、そういう発想を妨げている。
食糧自給率も上げなくてはならない。中国の食糧自給率はまだ100%近いが、10%落ちたら、日本の食料に影響が大きい。今、対処療法ではなく、いろいろ根本的なことを考えて対応をして行かなくてはならない時代である。
かつて博士論文の研究で交通流の研究をしていたが、終わってみて、クルマをスムーズに流せばまたクルマが増えるということに気がついて、その後の研究方向に悩んだことがある。結局交通事故などの研究テーマにシフトしたが。エコカーを開発すれば、買い換え需要が増え、走行量も増える。排水処理でも排水が増えることにつながる要素があるのではないか。なるほどごみ処理でも技術を進めれば、ごみが増えることにつながる。
3.11原発事故を経てわれわれの生活、生産そのものをみんなが、それこそ世代間を通して、見直して考えなければならない。
自分としては「脱効率」で、できるだけ、ゆっくりした楽しい時間を過ごしたい。「知足」足るを知って、贅沢しない。エンゲル係数が高いのがまともではないか。車をできるだけ使わないようになったが、余分な買い物はせず、ごみが減った。
「都市から里へ」人間がつながれることが大事ではないか。
以下質疑です。
○あまり若い人に夢を与えるような話ではない。
→若い人にいい加減な夢を与えたくない。
○あれやこれや言葉が並べられているが、一般論ではなく、具体的な提言がほしい。
→コンパクトシティーということでは、小羽山の開発自体も正しかったかどうかは分からない。
○少し話がおおざっぱではなかったか。年寄りが生き甲斐をもっていきるのはいいこと。
→倫理的なことを、自分の経験から語ったまで。あまり若い人の生き方を決めつけすぎると行けない。
○団塊の世代とあるが、どんな世代だったか。
→ある程度の共通性はあるが、個人的にも、地域的にもずいぶん幅がある。ひとくくりにされるのは良くない。都市と田舎のさもすごく大きかった。
学生紛争の当事者の世代とも言われる。大学立法で大学が静かになった。それから大学がだめになったと思う。
戦後教育を受けて、「きちんとものを言いなさい」といわれ、大学時代、経済成長の矛盾もいっぱい見ることになった。当時の教育者は充分な答えをくれなかった。
社会をもくもくと支えた人たちも多かった。人数が多かったので存在感が大きかったことはある。
・テーマは担当者がおしつけたもの。田村先生は団塊の世代らしくないひとです。
○戦争後遺症の世代との意味は
→戦後世代と言われたが、小さいときはどさくさの時代で結構恵まれなかった。
話は野外彫刻や、まちづくりまで広がり、時間は超過しました。
http://kankyo-salon.jpn.org/
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