宇部志立市民大学環境・アート学部OB会からの特別投稿 諸星三千代さんのインタビュー
2020年04月16日
諸星さんは昭和2年生れの92才。非常にお元気かつ積極的で、OB会の殆どの行事に参加していただいている。今回はその波瀾に満ちた「来し方」を、長時間にわたり詳しくお話し頂いた。限られた誌面ではとても書き尽くせないが、とりわけ大きな大きな四つのご経験を中心に纏めさせて頂いた。(インタビューと纏め。編集長:山切)
◇原爆(広島)で母、兄、妹を亡くした
昭和20年8月6日朝。18歳の私は前年より呉の海軍航空廠に学徒動員中だったが、前夜の深夜業で疲れ果てて目覚めた所に、「広島に新型爆弾が落とされた」という声が聞こえてきた。広島には、母、兄、妹が住んでおり、帰宅許可を願い出たが不許可。数日後、心配で居たたまれなくなり、無許可のまま、小さな風呂敷包一つで飛び出し、運よく通りかかった小型トラックの荷台に乗せてもらい広島の市街地に着いたが一面の焼け野原になっていた。何とか自宅の焼け跡にたどり着いたが、家族は誰もいない。知人から兄を見たと聞き、兄が務めていた軍の事務所目指し歩き始めた。一面、焦土で人影もない中を電車の線路を頼りに難行苦行の末、漸くそこに辿り着き、母と兄に合うことが出来た。後日、学生の妹もそこにやって来て家族4人再会することが出来た。正に偶然と幸運が重なったとしか言いようのない家族の再会だった。(既に亡くなっていた父、宇部に嫁いでいた姉との6人家族だった)母は全身大やけどを負っており、間もなく亡くなった。わずかな時間だったが、母の介護が出来たことはせめてもの救いだった。兄、妹は、その後、それぞれの生活を営んだが、原爆症が原因で亡くなった。姉は今も宇部で健在。102才になったが、お正月には妹の私に、お年玉をくれる良き姉である。
◇初対面での場で決まった結婚
終戦後間もなく、知人の紹介で広島市役所に採用され、社会課で戦後の一切の残務処理に当たった。とてもいい職場だったが、将来のことを考えると、身にきちんとした技をつけるべきと思い、辞め、神戸で2年間、洋裁の修行をした。その頃、頭に一つの思いがあり、それを文章にして、当時の二大週刊誌の一つの「週刊朝日」に投稿した所、掲載された。投稿したのは、敗戦による日本人の価値観の大きな変化の中、自分の結婚感や生活感を、当時の流行語を文字って「アパ・ブレの弁」と表したものだった。昭和29年3月のことだったが、すぐに何人の方から感想の手紙文が寄せられた。その中「東京の一読者と称する男性」とは、その後も文通が頻繁に続き、その年の年末に、彼が東京から広島に会いに来てくれた。その時が全くの初対面だったが、その場で結婚が決まったのである。人の縁とは全く思いもかけないものだが、ここに至った大きな絆は、最初の匿名手紙からその日までの9か月間、寸断なく続いた50余通の文通であったと言えよう。彼は私より15才年長で、都立高校の先生をしていた。
◇ベネズエラに住んで37年。
結婚して間もなく、主人が突然「ベネズエラに移住しよう。明日、外務省に行って手続きしてくる」と告げ、練耳に水のことで、びっくり。それから5年後の昭和35年1月、ベネズエラの地を踏んだ。長い年月がかかったのは、ビザ確保が非常に難しかったこと、携帯ドルの制約が厳しくパスポートに大蔵省の許可が必要だった等のためで、今から思うと隔世の感がある。ベネズエラは南米のカリブ湾に面し、面積は日本の2.5倍、公用語はスペイン語。石油、金,ダイヤ等の地下資源に恵まれた常夏の国で、暮らしやすかった。当初、スペイン語が全く話せず苦労したが、やがて主人と趣味の店を営み。安定した幸せな生活を過ごした。ベネズエラの人々は、よく言えばおおらか、悪く言えばいい加減。大半がカソリック信者でまじめな人が多いが、こと異性関係は実におおらか。男女とも嫌になれば、さっさと別れ、新しい相手を見つければいいと思っている。当然、異父母弟姉妹が多いが、仲良く行き来している。平成2年に主人が亡くなった。すぐに帰国したかったが、のんびりした国で手続きがなかなか進まず、南米数か国を旅するなどして機会を待った、この間、ベネズエラの経済は急落し、又、銃社会の中、治安も悪化し、家財、車、装飾品等全て自衛しなけばならない危険な状態になって行った。漸く平成8年10月に帰国出来た。何と日本を出てから37年も経っていた。ベネズエラの現状は、当時より一層悪化し、国家として破綻状態にある。このため念願の主人の墓参が果たせない、一刻も早い国情の安定、安全を願うばかりである。
◇帰国して。
帰国直後は正に浦島太郎だった。落ち着くにつれて、日本人の良さ、素晴らしさが痛感されるようになった。礼節を重んじ、強い信頼がおける国民性等々。世界でも一流の素晴らしい国民だと思っている。
帰国時、70才直前になっていたが、精力的にいろんな活動を始めた。設立されたばかりの宇部IECA,への入会、コーラス活動、奇術や日本史の勉強。スペイン語を活かした通訳の仕事もした。市民大学環境学部(2期)で環境を勉強して、このOB会にも入会した。OB会の勉強会や見学会、懇親会は、とても面白く、有難く思っている。今後ともどうぞ宜しくお願い致します。
◇宇部志立市民大学環境・アート学部OB会について
宇部志立市民大学環境・アート学部OB会(山根好子会長)は、市民大学環境学部の1期生の有志が、卒業(2011年2月)を機に結成、以後、毎期の卒業生に入会を募り、本年2月卒業の9期生の入会者6名を加え、会員数42人になっております。「会員相互の親睦を図り、市政との協同のもとに環境活動を行い、環境整備に寄与すること」を目的に、学習会や懇親会を行っております。2015年から、会員数増大に中、「情報の共有化」を図るツールとして、会報(はーもにー)を年4回発行しております。今回、「うべっくる」に掲載した記事は、最新号21号の「この人にフォーカス」欄に取り上げたインタビュー記事です。
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