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水俣研修ツァー山切さんのレポート(つづき)です。

2018年10月16日

同時に大掛かりな浚渫、埋め立て事業を行った。親水護岸にはコンクリートを入れた直径25mの鋼矢板シェルを埋め込んだ。そうして出来た埋立地に広がるのが、エコパーク水俣だが広さは東京ドームの13.5個分もあり、人口25,000人の水俣市にはもったいないと言われるくらい素晴らしい公園だ。市民の中には、出来た経緯を知らず、きれいな公園として自慢している人すらある。しかし所詮は水銀ヘドロを浚渫して埋め立てた上に作った公園。大きな地震が来たら液状化して、埋め立ててある水銀が噴き出てくるかもしれないし、鋼矢板シェルにしても耐用年数50年と言われている。こうしたことから市民の中のは、これを機に浄化すべきと言う人もいる。尚、鋼矢板シェルについては、先般の熊本地震の際、検査した所、その時点で(築33年)あと30年は大丈夫との検査結果が出ている。 

此処に水俣病犠牲者の慰霊碑がある。認定患者2,282人中、200人が生存しておられる。従って.2,000人近くの人の名が此処に名前が収められるはずだが、収められている人はわずかに2割に過ぎない。死んでからも患者扱いされたくないという本人、家族の気持ちによるものだ。又、未認定の死亡患者も入れぶべきとの声もあるが、認定者側が反対して入れない状態になっている。認定段階で認定反対の立場の人達から、強い非難を受けた過去へのこだわりがあるという。水俣病の複雑性、深刻性を物語っている。慰霊碑の周りには、小学生の作った魚や貝の土器が沢山置いてある。犠牲になったのは、こうした生きもの達もだよとの子供たちの気持ちだとのこと。

【茂道漁港】もともと、茂道松を守る4軒が住んでいた所だったが、段々、移り住んできて一つの集落になった。この地区からも多くの患者が出ている。200人くらいだから一世帯に一人という割合。
  既に魚を食べて狂った猫が発生していたのに、そうした情報が地域に届かなかった事情が指摘されている。

【水俣病センター相思社・水俣俣病歴史考証館】
◇熊本県の小学4年生は全員、必ず、水俣に遠足に行き、資料館見学や語り部の話を聞くことになっている。只、4年生では、語り部の話が「かわいそう」で終わってしまう。もっと覚めた目で歴史、環境の問題を学ぶ教育が必要な気がしている(小泉さん)
◇水俣には二つの資料館がある。市立の「水俣病資料館」と此処にある私立の「水俣病歴史考証館」だ。資料館建設の計画は、市立の方が早かったが、患者を中心に水俣病の真の姿を見て貰いたいという気持ちから「水俣病歴史考証館」の方が先に出来た(1988年。市立は1993年)此処は患者達が手足にあまり負担を掛けずに作業が出来るキノコ工場の跡地だ。
◇不知火海は琵琶湖の2倍くらいの大きさだが、本土、天草に囲まれ干満はあるが海流の流れが殆どなく、入れ替わるのに数年はかかると言われる。波のない日は海面は鏡のようで「油なぎ」と呼ばれる。こういう海に高濃度の水銀汚染水が長期間、滞留したことが、水俣病の原因の一つとされる。
◇歴史考証館に象徴的な写真が掲示されていた。1956年に初めての患者が確認されたが、それから5年後のある家族の写真である。写っているのは、父母が水俣病で入院し、残された小さな弟や妹を世話するために二人の姉が嫁ぎ先から帰ってくる。このころには水俣病の原因がチッソ水俣工場の工場排水であることがほぼ分かっていた。この情報が届いていないこともあるが、魚以外、食べるおかずがなかった事情もあると言う。水俣は漁村に平地がなく、畑が出来ず米も野菜もとれない。危ないとは分かっていても、魚が主食にならざるをえなかった。この頃、子供の離乳食は魚をすりつぶしたものが一般だった。
◇漁業は、一人の網本の下に数10名の網子がグループを組んで操業していたが、仲間に患者が出ると敬遠し合い、グループがバラバラになり、操業が出来なくなる。村の寄り合いにも呼ばれなくなる。人間関係をバラバラにする、これが水俣病の大きなマイナス点である。
◇猫実験の小屋。猫による水俣病の実験は熊大を始めいろんな所でやられていたが、これはチッソ付属病院の院長の細川一氏が実験していた小屋。工場排水を餌に入れて与えた所、水俣病の症状を起こしたため(猫400号)、工場幹部に報告したが受け入れられず、実験の中止を命ぜられた。やむなく同氏はチッソを退社し、故郷の愛媛で開業。その後肺がんに罹病、末期の重体の中、裁判所の臨床尋問で工場勤務時代の実情を証言。これが裁判で患者側勝訴の大きな決め手になった。細川氏が猫400号の報告を工場幹部にしたのが1959年、実際にチッソが設備を停止し、排水を止めたのが1968年。この間、実に9年間。しかもこの間が水銀排水が最も多い時期でありこの時期のずれが大きな悲劇につながった。

◇私(小泉さん)は1957年の食品衛生法の適用申請が水俣病拡大防止のための最初の機会だったと思う。この法手続きは県独自で決済出来るのに、熊本県はわざわざ国(厚生省)に問い合わせ、同省から「適用不可(理由:全域の魚汚染を明らかにする証拠がない)」との回答を得、適応を見送り、水俣病の防止拡大が出来なかった。同じようなケースの「浜名湖有毒あさり事件」では、静岡県が同法の適用を自ら決裁し拡大防止に成功している。実に残念なことと言わざるを得ない。
◇細川氏が「猫400号」を報告した年の年末には、チッソは患者と「見舞金協定」を結んでいる。協定の内容を良く理解出来ない患者に対し、お金の必要な年末ぎりぎりに、会社の責任を認める補償金でなく見舞金名義で、これで打ち切りとするなど、完全な会社サイドの協定書になっている。この年には工場排水の処理場所も変えており、チッソとしては、これで水俣病対策は終わったと理解していたのであろう。
◇そうした中、熊本大の「チッソ工場排水の有機水銀説」の公表をきっかけに、支持説、反対説が入れ混じる中で、新潟水俣病の公式確認、それに関する裁判開始、チッソに対する交渉、株主総会での抗議等が強まって行き、次第に「チッソ工場排水の有機水銀説」が強まって行った。そして1968年の5月18日にチッソは水俣工場のアセトアルデヒド製造設備を停止、同年9月26日には、政府が正式に水俣病の公害認定を行い、水俣工場の排水に含まれるメチル水銀がその原因であると断定した。これを機にチッソに対する抗議、抗議行動が高まって行った。
◇水俣病に関する第1訴訟の提訴(熊本地裁)は1969年。新潟水俣病の裁判開始は1967年で水俣に先行していた。新潟の裁判は会社(昭和電工)敗訴で終わっていたので、熊本地裁でも会社敗訴の判決になることが予想されていたが、1973年3月、患者の全面勝訴の判決が出された。しかし、患者にとっては勝訴が全ていいことにならない心の不安があった。チッソの企業町ならではの不安(会社の補償金負担⇒一般市民生活への負担の跳ね返り)、被害者である患者が加害者になるのではとの心の不安が大きかった。ここに水俣病の深刻性、複雑性がある。
◇患者に対する補償は、一企業だけでは非常に困難な事態に陥ったことから、国が「チッソに対する金融支援措置」を決め、熊本県が県債を発行し、チッソに貸し付け、補償金に当てることが決定し(原因者負担責任堅持の原則)、これに基づいて行われている
◇水俣病は、正確には「メチル水銀中毒症の後遺症」である。メチル水銀は、人体に必須のメチオニンというアミノ酸と構造がよく似ており、体が栄養と勘違いして積極的に吸収する。妊娠中の母親が栄養をつけようと魚を食べる。吸収されたメチル水銀は、優先的に胎児に送られ、その結果、母親は健康なのに、生まれた子供は重症の中毒症(胎児性水俣病)になる。これが母親に強い罪悪感を負わせることになる。

翌日、市立の「水俣病資料館」を見学した。勿論、こちらが建物が立派で、豊富な展示物、資料。説明設備も完備しており、キノコ工場を利用して建てられた
「水俣病歴史考証館」よりはるかに立派である。しかし、患者の皆さんが是非、見て欲しいと、資料を集め、展示したものの訴えるものは、決して、市立資料館に負けるものではない。水俣病を学ぶには、是非、双方を訪れるべきであると思った次第である。

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