環境サロン「3・11以後の暮らしと環境問題 第6回 原子力と環境問題」
2012年01月19日
福島第一原発災害からはや10ヶ月を過ぎ、発表されるニュースは次々に見つかる放射能汚染、一向に収まらないその深刻な事態は50数年前に僻遠の地で発生した悲劇にも似つつある。
その悲劇は多くの被害者を生み、今も解決の目処もなく、
福島で進みつつ様相は水俣で発生した悲惨な事件に似てきつつあるということで水俣病事件をふりかえり、それを踏まえて福島を考えて見ることにした。
特に、1956年5月1日の水俣病公式確認から5~6年、その後の水俣病事件の長い長い悲惨な事件を性格付ける間を中心に話を進めた。
まずは原因企業であるチッソという会社の成り立ちから話を始めた。
1908年、野口遵は九州南部の鉱山への電力供給を目的に水力発電所を建設し、その余った電力をつかつてカーバイドを作る会社を水俣に建設した。
その後肥料である硫安を製造するようになった。
戦前は大陸にも進出し、朝鮮に水力発電所を建設、巨大なコンビナートを建設したが終戦と共に当時チッソの約8割を占めていた海外資産を失い水俣に引き上げてきた。
水俣工場も終戦1年後には工場を再開し、アセトアルデヒドを生産し始めた。
水俣病の原因である有機水銀は戦前から水俣湾に流出てはいたが、工場再建と共にその廃水は増えてまずは漁民の廃水への抗議が起こり、県からの調査も行われたが県はなにも対策を行わなかった。
そして1956年4月下旬数人の子どもがチッソの付属病院に入院してきた。
病院長である細川一はその特異な症状に驚くと共に、その母親から地元には同じような症状を示す子供たちが何人もいることを聞き、5月1日、水俣保健所に「原因不明の脳疾患児の多発」という報告を届け出た。
これが今に至る水俣病の公式確認の日である。
これから現代に到る60年近い解決することなく延々と続いてきた水俣病事件の始まりである。
当初の1年あまりはチッソ付属病院の細川病院長、水俣保健所の伊藤所長、熊本大学などの精力的な活動で約半年後の1957年の1月にはチッソの廃水が原因としか考えられないというところまでこぎつけた。
しかしこのあたりから原因究明の名のもとに県、国の対策遅延の動きが始まる。
具体例を挙げれば同年3月、熊本県の水俣病対策の責任者である水上長吉副知事主催の「水俣奇病対策連絡会」で漁業法による漁獲禁止も食品衛生法も原因がはっきりしなければ適用できない、行政指導でいくとした。
つまり、汚染された水俣湾での魚を取ることを禁止したり、それを食べることを禁止しなかった。
単に指導で行くという話である。
また県の蟻田衛生部長が水俣に行くことを水上副知事は禁じてしまった。
従って以後熊本県としては何ら積極的には対策を取らないという方針が決まってしまった。
国は同じく同年4月関係各省の懇談会で原因(工場排水中の原因物質)が究明されなければ対策は取らない、取らなくてもよいといった国の姿勢が決まってしまった。
その様な中、チッソ本社は事態を深刻に考えて熊本大学と協力して原因究明を図るように水俣工場に指示をするが水俣工場長はそれを拒否してしまった。
チッソ水俣工場の非協力という状況のなかで熊本大学の研究班は懸命に原因究明の努力が続いた。
その後、チッソの増産体制と共に水俣湾から廃水は水俣川を通して不知火海に直接広がり、その後の爆発的な患者発生のもととなった。
患者の激増の中でも県、国の対応は鈍く、有効な対策は取られることがなく時間ばかり過ぎることなる。
そんな中、1959年10月に細川病院長が行なっていた猫をつかつた実験で工場排水を投与した猫が水俣病と同じ症状を示すことが判明した。
これが後の裁判で判決の大きな判断基準となる「ネコ400号」実験である。
細川病院長の報告に工場長は外部への発表はおろか、以後の実験をも禁じてしまった。
そのような状況のなか熊本大学では原因究明は続けられ、海外からの情報もあり、有機水銀が原因とほぼ確定した。
しかし、チッソの非協力のため、工場の廃水に既に有機水銀が含まれていることまでわからず、海水中、又は食物連鎖のなかでの無機水銀から有機化することの究明に追われ、これが原因究明をさらに遅らせることになった。
そんな中、1059年11月、患者だけでなく、取っても売れない漁民の苦しみも大きくなり、チッソに対する抗議運動も大きくなり、工場への侵入破壊事件も起こる。
それに対する警察の取締は厳しく、後に自殺者なども出てくることになる。
同時期、東京の江戸川にある本州製紙江戸川工場の廃水による海の汚染で工場に抗議しなだれ込んだ来た漁民による騒動の件では工場の廃水浄化設備設置まで工場の操業停止、そして水質2法という工場の廃水規制を盛り込んだ法律の制定まで行く事件が生じていた。
水俣という東京から遠く離れたところでは多くの患者、そして死者を出しているにも関わらず工場の停止もなく、東京のお膝元で海が汚れて魚が臭くなるといった騒動で工場を操業停止、そして規制の法律までできるといった不公平な国の対応であった。
ちなみにこの事件で成立した工場廃水の規制法は水俣湾に適用されることなくチッソの廃水は野放し状態が続いた。
そしてチッソは1959年12月、工場に廃水処理施設を設置、竣工式で社長がこの施設で廃水は水道水より綺麗な水となって出て行くと言ってその処理水の入ったコップの水を参加者の前で飲んで見せた。
これはしかし全くの欺瞞で単なる水道水であった。
こんなパフォーマンス、その後水俣病の原因を工場廃水ではなく、旧陸軍の海上廃棄爆薬によるもの、腐った魚によるものなどといった学者などの報告が中央から寄せられ工場廃水原因という説を打ち消す試みも行われた。
また同年12月、困窮する患者にチッソは困っている人に援助をといった少ないお金での見舞金契約を患者と取り交わす。
その契約は病気の原因が工場の廃水と判明しても文句を言わないといった後の裁判で公序良俗に違反するとまで言われるものであった。
そして数年、世間の関心も薄らぐなか、不知火海に広がった汚水は水俣から北方向、そして対岸の地域まで患者を発生することなった。
熊本大学では引き続き原因究明の努力がなされ、1963年2月、幸運にも学内のなかで以前に採取されていた工場製造設備からのスラッジが発見されその中から有機水銀が検出された。
これで、海の中で無機水銀が有機化してそれが水俣病の原因となっていのではなく既に廃水中に有機水銀が含まれていることが証明された。
ちなみにチッソ社内では遡ること約10年前にはアルデヒド製造工程中で有機水銀が生成することが研究者の手で確認され報告されていたがこれは上司の手でもみ消されていた。
水俣病の対策が遅々として行われない中、水俣病の公式確認から9年後の1965年、新潟で第二の水俣病が発生した。
新潟での水俣病患者の動きは早く、2年後には原因企業の昭和電工を新潟地方裁判所に告訴した。
また、新潟水俣病の発生を契機に新潟水俣病の患者と水俣病患者の連携を契機に水俣では患者だけでなく一部理解のある市民も加わり、水俣病対策市民会議が1968年結成された。
その後、通産省指導で勧められた化学工業の石油化学コンビナートへのスクラップアンドビルドの流れのなかで1968年水俣工場のアセトアルデヒド設備は休止された。
戦後まもなくから始まる水俣湾、そして不知火海への有機水銀の流出は設備は止まっても汚染はそれ以後も長く残ることなり、患者の発生もとどまることはなかった。
そして政府はアセトアルデヒド設備の休止を待っていたように水俣病を「熊本水俣病は新日本窒素・水俣工場のアセトアルデヒド酢酸設備内で生成されたメチル水銀化合物が原因であると断定し、新潟水俣病は昭電鹿瀬工場のアセトアルデヒド製造工程中に副生されたメチル水銀化合物を含む排水が中毒発生の基盤をなしたと判断する」という内容の『見解』を出し、公害病と認定した。
公害病と認定されても患者の苦しみは変わらず、以後は発生するに任せていていた患者を認定制度というふるいを設けてふるい落としが始まった。
国や県は一度もまとまった水俣病の臨床調査もすることなく、1937年イギリスの農薬工場で発生した有機水銀中毒に冒された4人の従業員の臨床症状に基づいたハンター=ラッセル症候群を基準としてごく一部の典型的、激症患者のみの救済としてしまった。
遅々として進まない患者の救済に患者団体はとうとうチッソを提訴することになった。
1969年6月14日のことである。
原告代表の渡辺栄蔵は「今日ただいま、国家権力に対して、立ち向かうことになったのでございます」と挨拶した。
相手はチッソであるがその後ろには県、国が控えてことを見据えた挨拶であった。
この提訴以降現在まで水俣病に関わる裁判は30数件起こされその内、数件は今もって係争中である。
50数年の間、患者の多くは認められることなく亡くなっている。
国は何度か泥縄式の救済措置を講じているが患者の苦しみは今も続いている。
これは水俣病のほんの一端を述べたものである。
いま福島で起こりつつある放射能問題、時を経るにつれてこの悲惨な水俣病事件と同じ様相をしつつある。
まず、被害を受けた多くの方は東電からの恩恵を受けることなく被害のみ負わされている。
中央の豊かな生活を担う巨大な原発を地方に置く様子は、当時の所得倍増計画の一端を水俣という九州の一地方にあるチッソという会社に担わさせ、被害は出るに任せたものに似ている。
そして水俣湾から広い不知火海に廃水をとどまることなく垂れ流しする姿は放射能汚染水を太平洋という大海原に流せば薄まるので影響なしと言っていることと同じである。
それはいつか濃縮というしっぺ返しを受けることになるであろう。
また被害を受けた方の病像について、水俣では有機水銀という特有の症状を示すものでその判定は放射能汚染を考えた時には判定はある面、容易と思われるが、放射能は子々孫々まで及ぶ影響、気の遠くなる問題である。
そして行政の対応、必要なところに的確な情報が届いていない。
全く水俣病事件でも同じことが起こった。
意図的に情報を遮断することがどれほど取り返しのつかない事態を起こすか水俣病事件で痛切に感じられたであろうに繰り返されている。(P)
話の前に参加者と歓談する話し手の西村です。
話は佳境期に入り、舌も順調に動いています。
さてみなさんこれで水俣病事件はだいたいお分かりと思います。
では今回の福島の事態を考えてみましょう。
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