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研修ツァーの水俣病関連について、山切さんによる、相思社のガイドを主体にしたまとめです。

2018年10月16日

水俣視察のレポート
                               山切睦彦
第一日(10月9日) 水俣病関連(縁ゆかり)の場所、施設の視察
 水俣病センター相思社の小泉初恵さんが社有車で、市内の各地にある水俣病関連の地や施設を回り、詳細な解説をしてくれた。相思社は、患者寄りの立場で、水俣病の真実と意味を明らかにして行くことに取組んでいる一般財団法人。
当初、患者の直接的支援をしていたが、今は教育的・間接的支援に力を入れている。いろいろな相談、医師の紹介等の相談にも乗っているとのこと。
以下、視察の順にその場での説明の要約を記す。

【大崎ケ鼻】水俣の地勢が体感できる場所。水俣市は海岸がリアス式で入り組んでおり、そこに山が迫っているため、平地が非常に狭い。このため水俣の主要産業は林業。漁業人口はわずかに2%。別に仕事を持ち、その日のおかずに漁をする人達が多い。水俣の漁業はきちんと金額換算が出来ない産業だったことも発見が水俣病被害の発見が遅れた要因とされる。
水俣川の下流地域の南部は、水俣病が最初に発症した地域。天草から移住してきた「なごろ(流れ者)」と呼ばれる人達が多く住む環境にあった。

【チッソ正門】チッソは、2011年に製造部門を「JNC」に移譲し分社し、チッソは賠償金の支払い会社になった。正門は両者の正門になっている。
そもそもチッソは曽木電気(株)として鹿児島県で設立されたが(1906年)、日本窒素肥料(株)を作る際、水俣の熱心な誘致があり水俣工場を作った(1908年)。チッソが来る前の工場用地は塩田だった。日露戦争後の国家財政窮乏対策として塩は国の専売事業になり、水俣塩田は引きあげられ、「土地空き、人余り」の状態になった。チッソの水俣進出は、このタイミングと重なり、みるみる大きくなっていった。
チッソは肥料で大きく発展したが、第1次大戦時に外国から輸入出来なくなった化学製品を製造し、更に大きくなり、昭和天皇が行幸されるほどになった。 
北朝鮮にも会社を作り進出した。
カーバイトからアセトアルデヒドを作る過程で触媒に水銀を使用、その水銀が工場排水になる過程でメチル化してメチル水銀になって流出した。アセトアルデヒドは可塑剤に必要。可塑剤は電化製品、自動車、繊維等、高度成長を支える製品に欠かせないもので、それを一番、大量に製造していたのが水俣工場だった。日本の高度成長を担う企業の責任として、日本政府の強い意向もあり製造を落とすことは出来なかった。
多くの市民がチッソに勤めたり、関連の仕事についたり、水俣は完全なチッソの企業城下町になって行った。チッソのすぐ近くに水俣第2小学校があるが、その校歌には「チッソの花咲く煙」という歌詞があった。今ではさすがにチッソの歌詞はないが、それでも「工場の花咲く煙」として残っている。チッソが水俣発展のシンボルであったことを如実に物語っている。

【百閒排水口】この排水口の奥に貯水池があり、工場排水は、一旦、此処に貯められ、その上澄み水が、この排水口から海に流れる仕組みになっていた。しかし実際には、常にはそのようになっていなかった。1932年(昭和7年)にアセトアルデヒド・合成酢酸設備が稼働を開始したが、この頃より1968年(昭和43年),同設備を停止するまで水銀を含んだ工場排水が水俣湾に放流され続けたことになる。
チッソノの排水溝は、百閒、八幡と、殆ど使用しなかったもう一つの3カ所あった。1958年に百閒排水溝周辺に異変が起こっていたので、漁民が止めるよう要請した。これに対しチッソは止めることなく、八幡排水溝からの排水に切り替えた。これにより、排水による異変が不知火湾全域に広がってしまった。この事態に対し通産省はチッソに対し「適切な処置」指示した。これは水俣病の拡大を防ぐ絶好の機会だったが、チッソは止めることなく、再び元の百閒排水溝からの排水に戻している。百閒港に船を係留すると船底にはフジツボがつかないことが広がり、漁師は競って此処に係留したという。有機水銀を別の目的に利用していたことになる。貯水池等は水銀濃度25ppm以上の排水ヘドロはポンプで吸い込み閉じ込め山土を入れ埋め立て、合わせて竹林にして地下茎による固定化を施している。チッソの敷地外は県が検査しているが、敷地については、立ち入れず検査できない。敷地内で大量の水銀が出たことがあったが、チッソは除去せず、コンクリートで覆い隠すに留めてた。

百閒排水口の前に、水俣病患者連盟委員長の川本輝夫氏(チッソの従業員で患者でもあった)が作った地蔵が置かれている。川本氏は100体の地蔵を作りたかったが、一つ作った所で死去。このお一人のお地蔵さん、排水口を睨んでいるような気がする。

【水俣湾埋立地(エコパーク水俣)】
 1973年に不知火湾全体が水銀汚染されているという大きな社会社会不安を起こした「第3水俣病騒ぎ」が起こった。翌年、熊本県は水銀汚染魚の拡散防止のため、水俣湾に全長4,400mの大型仕切り網を設置、網内の汚染魚を捕獲し、ドラム缶3,500本に入れ埋め込んだ。

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